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■名前:赤井 誠

著書


ゼロからの不動産投資―めざせ!3年で資産3億円、月収300万円

すばる舎

Profile             




■著書
Amazon 1位獲得
楽天ブックス 1位獲得



赤井 誠 Akai Makoto

1奈川県横浜市生まれ。
大学院 電気工学専攻 修士課程修了後、メーカーにて研究・開発業務に携わる。

障害者の父を助けて早朝から夜中まで働きづくめの母からお金の大切さを学び、サラリーマンの傍ら、不動産投資・経営の勉強を始め、夜と土日は不動産経営に従事し、二足のわらじを履くサラリーマン大家となる。

また、宅地建物取引主任者も取得し、さらに本業がエンジニアであることから、第二種電気工事士など各種工事技術資格を保有する。

現在は11棟81室を所有し、総資産は約6.5億円(内純資産は50%)となる。
現在、年間家賃収入は約7500万円 キャッシュフロー約4500万円。

不動産関係の主な活動として、インターネット上のブログを通じて全国に情報発信をしている。執筆中のブログは人気ブログランキングで9年連続TOP10入りして、そのうち約2年間TOP1を維持した

著書 「ゼロからの不動産投資」(すばる舎)は最近の不動産系の本ではトップクラスの売上げになっており、現在9刷 24,000部まで増刷されている。

また、二冊目の著書「めざせ! 満室経営 本気ではじめる不動産投資 」はAmazon 不動産投資部門 楽天ブックスの不動産部門で、売上一位を記録している。


また、不動産投資の収益物件検索サイト健美家のコラムを執筆するほか、休日は全国を飛び回り自己の経験事例をもとにセミナー講師活動を行っている。

まわりの協力業者さんなどのパートナーとの連携を大事にしていくことが、不動産経営の最重要ポイントと考え活動することで、所有物件は過去9年間ほぼ満室、物件稼働率は98%以上となっている。


ブログ
  赤井誠のゼロからの不動産投資

コラム
  二束のわらじで不動産投資

得意のDIYをまとめたHP
  セルフリフォーム大家さん



■履歴
(幼少時代)
196x年 横浜市磯子区にて誕生しました。
3人兄弟の長男です。

4歳の時、父親の転勤で札幌市東札幌に引っ越しました。

その後、本郷幼稚園・東札幌小学校に入学しました。

小さい頃は近くの公園でトンボを捕まえたり、殿様バッタを捕まえて遊んでいました。

その頃、流行っていたのはビー玉で、何百と言う数のビー球を持っていました。

また、そのころの札幌は大通り公園あたりはそれなりに整備されていましたが、東札幌あたりは砂利道で、当時は馬車も多く、道の真ん中にはわらが入った馬糞がいっぱい落ちていました。

道端の馬糞をつついて遊んでいた記憶もあります。

その後、小学校二年の時に、また父親の転勤で、横浜市の八景島のそばに引越しました。

この頃は札幌とこちらでは授業の進みが全然違っていたようで、正直、転校してきた当時は、授業にまったくついていけませんでした。

そのため、当時はかなり馬鹿だと思われました。

ただその頃、とてもそれが悔しく、小学校3年ぐらいからはかなり勉強したと思います。

この頃に今の負けず嫌いの根性が養われたのかも知れません。

ただ、家から30mぐらいで海に遊びに行けたので、夏は毎日海で遊んで楽しい日々を過ごしていました。

この頃住んでいたのは、1DKの風呂なし4世帯のアパートでした。

風呂は玄関にたらいを置いて行水するか、銭湯に行く日々でした。


その後、小学校4年の時に横浜市内に両親が家を建て、そちらに引越し、3度目の転校です。

そのまま、6年まで引越しなしで済みました。

あの頃は小学校は二年に一度クラス替えがあり、私は2,4年の時に引っ越したので、毎年クラスが変わり、友達ができると離れるという寂しさの繰り返しでした。

最後の5,6年は初めて二年間同じクラスで友達と過ごし、親友と呼べるような友達もこの頃できましたね。

ただ、転校生ということで突っかかってくるのも何人かはいて、よくケンカをしていたことも事実です。

幸い体はでかく、力もあったので、負ける事もなかったですが、相手を怪我させて、怒鳴り込まれたこともあります。


(中学・高校時代)
小3の時から意外に勉強していたので、当時では珍しく中学受験をしました。

第一志望の中学は落ちましたが、第二志望の中学には受かりました。

横浜ではそこそこ有名なA学園です。

入学すると、ここはかなりお金持ちの多い学校で、周りが裕福なのが良くわかりました。

遊びに行くことはできても、友達を呼ぶことはなかなかできなかったです。

なぜか、みんなすごい家。医者や自営業の息子がかなりいましたね。

その頃は運動もあまりせず、クラブは写真部に入り、子供の頃から小遣いをためたお金で、キヤノンのEFという一眼レフカメラを買いました。

10万以上はしたかなり高価な物だったと思います。

そのまま、普通の学生生活を送っていましたが、高校1年の時に父親が糖尿病から来る脳血栓で突然倒れ、そのまま半身不随になってしまいました。

当然のごとく、父が勤めていた会社では、長期の休暇は認められず、退職。

我が家は完全に収入が途絶えました。

そのため、母親がその頃から仕事にでるようになり、我が家を支えることになりました。

ただ、40過ぎで何の資格もない母親ですから、まともな仕事などあるはずありません。

近くの仕出し弁当屋で朝の4:00頃から働き、夕方に食事を作りに帰宅し、また、仕事に出て夜の10:00過ぎに帰ってくるという生活になりました。

今でも母親の頑張りには頭が下がります。

これに比べると、私の頑張りなどまだまだです。

父親は、病院か自宅でほとんど寝ていて、リハビリも続けていましたが、何年もまともに動くことができませんでした。

家計的には、父親が障害者の二級になったことで、生活保護を受ける事もでき、なんとかやってこれたのだと思います。

当然、私の私立学校での学費は大きな負担になることはわかっていたので、当時は真剣に公立高校への転校か退学を考えていました。

母親は、なんとかなるからせっかくだからこのまま継続的に学校に行くように勧めてくれ、私も少しでもお金のかからない生活をするようになりました。

ただ、その頃妹は中学生と小学生。

さらに住宅ローンも抱えて、本当に大変だったと思います。



私の高校では、かなりいい成績をとると、授業料が免除になる特待生制度があり、そんなことから、私もがむしゃらに勉強し、高1の時には特待生になりました。

ただ、小遣いはなく、高2からはお金を稼ぐために、いろいろ裏稼業をやりました。

バイトは禁止されていたので、金持ちの友達と麻雀。制服を着替えて、サングラスをしてパチンコに行くという生活に落ちていきました。

麻雀は子供の頃から父親に習っていた事もあり、かなり強く、毎月何万か稼ぐことができたと思います。

ただ、当然のごとく成績も落ちていきました。

高3の時に、このままではいけないと思い、またがむしゃらに勉強して、とにかくお金のかからない国立大学に入る事だけを目指しました。


(大学時代)
結局、いろいろ悩んだ末に、やはり過去に住んだ事のある北海道大学を受験する事にし、無事合格しました。

ただ、この頃も我が家の収入は母親の収入だけでしたので、授業料は全額免除、入学金は半額の6万円を払っただけでした。

結局、大学院まで行ったのですが、授業料は6年間ずっと無料。大学と大学院の入学金のみ半額、トータルで10万以下しか払っていないと思います。

当時は、国立大学のありがたみを本当に感じました。

当然、奨学金も特別割増でもらえて、23000円。そのうち15000円のみ無利子で返却すれば良いと言うものでした。

大学院の時は、現在就職しているメーカーの奨学金試験をうけ、毎月8万円もらいました。

あとは、生活のためのバイトです。

家庭教師はやはり効率がいいので、やりましたが、もっとも儲かったのは教材セールスでした。

夜にセールスに行き、多い月で500万以上を売上げ、TOPセールスになったことも何度もありました。

この頃は、すすき野で夜の仕事や肉体労働とにかく何でもやりました。

今思い出すと、いろいろ思い出に残ることが多いです。

もちろん、麻雀・パチンコは相変わらずやっていて、こちらもかなりの収入を得る事ができました。

パチンコはあるときにほとんどパチプロのように本格的にやっていましたので、月に100万以上稼ぐこともありました。

とにかく、開店前の9:00には並び、そのまま店を代えながら夜10:00まで打ち続けです。

ただ、毎日、パチンコ屋で稼いでいると、怖〜いお兄さんから呼ばれます。

いくつものの店で出入り禁止を食らうようになり、最後は一時間以上かけて遠いパチンコ屋まで遠征していました。

ただ、このパチンコもやめる日が来ました。


ある英語の試験の日、普通に大学に行き、試験を受けようとしたら、右手が震えて文字が書けなくなりました。

腱鞘炎ですね。

その日は、初めてのことで、どうしていいかわかりませんでしたが、左手で右手を押さえて、震える手で何とか答案を書きました。

この日以来、将来のためにこんな生活はやめるべきだと心に誓い、長かったパチプロ生活もスパッとやめました。

その後は、まじめなバイト学生にもどり、無事に大学を卒業し、大学院に進学、普通のサラリーマンになりました。


学生時代の思い出に、パチンコで稼いだ金でラスベガスで最後の勝負をしてこようと当時の仲間5人で乗り込んだのは楽しい思い出です。

初日はかなり勝ちましたが、あくる日は惨敗。

すべてをすって、帰国しました。

これ依頼、ほとんどギャンブルはやらなくなりましたね。

今は、付き合いで年に一度ぐらい麻雀をやるくらいで、パチンコはほとんどやらないし、ギャンブルといえば、グァムでやったドッグレースぐらいでしょうか。

こちらももう今は閉鎖されましたが。


(サラリーマン時代と不動産との出会い)

就職は奨学金試験で合格していたこともあり、何の問題もなく就職。
今は比較的大きな会社になりましたが、私が入った頃は本当に汚い小学校の校舎のような本社でした。

比較的好きな仕事をやり、それこそ、典型的なサラリーマンとしてバリバリ働いていました。

年取った両親は、私が大学行ったり、就職したり出世したりすることを自分のことのように喜んでくれるので、私も親孝行としてまじめに職務についていました。

会社に入り、すぐに大学の頃から付き合っていた現在の妻と結婚し、子供も男の子が二人生まれ、キャッチボールをしたり、キャンプに行ったり本当に普通に生活していました。

バブルの絶頂期に自宅マンションを買い、それが暴落している中で売却し、一戸建てを建てました。

借金はどんどん膨らみましたが、その頃の私は、いつか豪邸に住むんだという目標だけで、ひたすら給料を自宅取得のために貯め、使うということをやっていました。

そんなこんなで20年近くが過ぎ、ある日会社行く途中で寄ったセブンイレブンでビッグトゥモローを立ち読みした時に、衝撃が走りました。

そこにはファイナンシャルアカデミーの束田さんとハートブレインのコテツさんがボロ物件をリフォームして、家賃収入を得ているという記事が書かれていました。

当時の私は、自宅の庭にDIYでウッドデッキを作ったり、屋根裏部屋を造ったり、様々な大工工事をやっていました。

家の中ももういじるところがないところにこの記事。

私の心はその日一日大興奮状態でした。


その翌日から、早速不動産業者を回り、物件探索がはじまりました。

そして、大家さん学びの会にも参加。

若い方が不動産をすでにいくつも持っている事にさらに衝撃を受けました。

そのころには、障害者の父もだいぶ体は回復し、よちよちですが歩ける程度にはなりました。


(不動産購入後の活動)
毎日、サラリーマン帰宅後にインターネットで3時間ぐらいは物件探し。

資料請求しては、現地見学の繰り返しでした。

最初に区分の買い付けを入れますが、うまくいかず、その後は一棟ものを中心に探し続ける毎日でした。

そのへんの内容は書籍「ゼロからの不動産投資」に書かれていますので、そちらをご覧ください。

3棟目までは順調に手に入れるも、その後は停滞。

このころから、購入時の頭金を30−50%入れるように方針を転換

それから1年後に新築用の土地をゲット。年末には2棟の新築を建てました。

その後、資金繰りの苦しくなった業者さんから駅近の土地をゲット。

そこには、13%の利回りのデザイナーズ新築を建てることができました。

また、戸建てもゲットし、ゲストハウスとして貸し出し中。

その後、さらに築古のアパートを売り出し価格の半値で購入。フルリノベーションし、20%の利回りを達成。

さらに任意売却によりS造のマンションを二棟購入し、フルリノベーション。こちらはりまわり15%を達成。


今後も少しでも家族が幸せになるために不動産・サラリーマンともども頑張って行こうと思っています。